変わらない日本の教育と社会

(子供が死ぬのはコロナのせいか?) 

 文部科学省が行った2020年度の問題行動・不登校調査の結果、小中高校から報告された児童生徒の自殺者数と小中学生の不登校者数は過去最多となったことが分かった。このことはコロナ禍が子供の心身に大きな影響を与えたことを示す。しかし、自殺したり不登校になったりする子供が去年多かったことを「コロナ禍だったからしょうがない」の一言で済ませてはいけないはずだ。

 2021年はオリンピックや政治に関する話題にかき消されていたが、子供に関する惨い事件や事故が多かったように思える。3月には北海道旭川市の公園で当時中学2年生だった女子中学生の凍った遺体が発見された。この亡くなった少女は近隣の小中学校の生徒から凄惨なイジメを受けており、死の直前までそのイジメによるPTSDに悩まされていたという。驚くべきことに、担任や教頭、元校長、教育委員会は本人や保護者からいじめについての訴えがあったにも関わらず事実を隠蔽しようとした。警察でさえ嘘の調書を書いた。さらに、加害者から被害者と遺族に対する反省や謝罪は未だになされていないという。

 7月には福岡県中間市の双葉保育園で、男児が送迎バスに取り残されて熱中症で死亡した事件が起こった。バスを運転していた女性園長は男児の降車確認を怠り、その後男児の出席確認もなされなかった。また、園では児童への体罰や暴言などが日常的に行われていたという。

 9月には東京都町田市の小学校に通う小学6年生の女子児童が同級生にいじめを受けて自殺したという報道があった(事件が起こったのは昨年11月)。加害児童らは被害者に対して、タブレット端末のチャット機能を使用して悪口を書くなど長期に渡っていじめを続けたという。さらに、当時の小学校の校長はタブレット端末に書かれた被害者への悪口が「ハッキングによって」消されたなどと主張し、いじめの隠蔽を図った。

 これらの事件はコロナと何か関係があるようには思えない。むしろ、戦前から変わらぬ日本の社会風土と教育が生み出した事件だと考えるべきではないだろうか。

(日本の異常な社会風土と教育)

 日本には、国内でしか通用しない不合理な文化や伝統、風潮と呼ばれるものが数多く存在する。

 例えば、日本では年下の人間が年上の人間に対して一方的に敬語を使うことを強制される。そのため、会社などでは部下に対して年齢が高いという理由だけで傲慢に振る舞う者も少なくない。結果として上司と部下の間で健全で対等な関係は生まれにくく、代わりに部下だけがストレスを感じるような上下関係が生まれてしまうことが多い。悪い場合はそのような関係を利用したセクハラ、パワハラモラハラ、いじめなどが行われる。

 また、日本社会には過剰な同調圧力が存在する。そのせいで、たとえ正しい意見を持っていたとしても「周りと違う」というだけで排除されてしまう。そのため、正しい意見を主張することを諦め、ただ周りに迎合するだけの人間が多く生まれてしまう。

 さらに、何か不祥事がある度に謝罪を求められるというのも日本特有である。しかし、多くの場合何が悪かったのか検証はなされず、何も改善されることはない。そんな単なるパフォーマンスに終わってしまいがちなのが日本型の謝罪である。

 教育でも明らかにおかしいことが日本ではまかり通っている。黒髪強要や男女交際禁止などの校則はその代表である。部活動や体育での罰走や連帯責任、組体操なども外国人からすると奇異なものとして見られがちだ。また、日本ではスポーツを教える際に資格を必要としない。そのため部活動中の、指導力の低い教員による体罰が頻発している。さらに、日本では学校での柔道によってこれまで100人以上の子供達が亡くなっている。一方で欧米ではこれまで死亡事故が起こったことはない。オリンピックでメダルを獲得して喜ぶのはいいが、その裏には多くの犠牲があったことを忘れてはならない。今回の自国開催のオリンピックでは、残念ながらそんな日本のスポーツ教育の負の側面が報道されることはほとんどなかったように思われる。

 日本の教育はしばしば軍隊的だと言われる。戦時中は、若い兵士達が特攻隊や人間魚雷、人間爆弾として国家への忠誠を理由に自らの命を犠牲にして戦った。そんな時代の名残が未だに存在し、それを今まで変えてこなかったことは恥ずべきことだ。そして、そんな「変わらない」日本の教育を異常だと思わない者が多く存在するということが、日本の教育の質が低いことの何よりの証拠である。

(経済衰退が社会に与える影響)

 日本の実質賃金は1997年以来ずっと下がり続けている。その間に中国や他の先進国は怒涛の勢いで成長を遂げてきた。一人当たりGDP労働生産性はもうすでに韓国やイタリアに抜かれている。非正規雇用者や技能実習生の中には賃金が低いが故に、ギリギリの状態で毎日を過ごす人も少なくない。そして、経済の衰退は当然政治や文化などにも大きな影響を及ぼす。 

 日本の若者の投票率は他の先進国と比べて圧倒的に低い。これは、そもそも政治に興味がなかったり、投票に行くのが面倒だと感じている人の他に、今の衰退を続ける日本社会に希望が見出せず、自分が投票に行っても何も変わらないと思っている若者が多く存在するからだ。しかし、投票率が低いと若者ではなく、高齢者が暮らしやすい社会が出来上がってしまう。そうなると、高齢者の投票率が上がる一方で、ますます次の世代の子供たちも政治に興味を持ちにくくなってしまう。しかし、若者を含めた現役世代が伸び伸びと暮らせないのであれば、それは良い社会とは言えず、国全体の成長も見込めない。

 日本では本も売れなくなっている。そのため書店も閉店が相次いでおり、コロナ禍を経てそれはさらに加速するだろう。また、大学生の平均的な読書時間も下がっており、大学生全体の知力・思考力の低下が危惧されている。最近では、日本の高校生の読解力が数年前より大きく低下したことが話題になった。読解力の低下は、言葉尻だけを捉えて会話をする人間や行間を読まずに会話をする人間を増やすことに繋がり、人々のコミュニケーションの質を低下させる。

 経済の衰退は音楽業界にも影響を与えている。長く続く不況に加え、サブスクリプションサービスの普及を理由にアーティスト達の主要な収入源であったCDの売り上げは近年下がり続けてきた。しかし、音楽の主な聴き手である若者は、使えるお金が少ないために月数百円のサブスクリプション料すら払うことを躊躇する。そんな状況では音楽業界は活性化せず、質の高い音楽も生まれない。音楽の質が低ければ人々の感受性は貧困化する。

 さらに、インターネットの普及やリモート化によって人と人との結びつきが弱まると、人々は分断され不安や孤独を抱えるようになる。そこから生まれるストレスと経済的貧困によるストレスが組み合わされれば、当然その埋め合わせのために犯罪に走るような者も多く生まれるだろう。

(教育の改善策)

 これからの日本を良い方向に向かわせるには、教育面で多くのことを変えていかなければならない。まずは、これまで「いじめ」として扱われてきた行為を犯罪として取り扱うべきだ。そうすることによって、加害者が子供であっても犯罪者として取り扱いきちんと罪を償わせるべきだ。一方で被害者に対しては心のケアを十分に行い、安心して学校に通えるようにサポートする必要がある。被害者に転校を強いるようなことは絶対にあってはならない。その他、防犯カメラの設置や、クラスに流動性を持たせることもいじめの防止に有効だろう。

 また、教員の性犯罪率は一般の人と比較して有意に高い。自分の立場を利用して、子供を性的に搾取することなど絶対にあってはならない。加えて、子供を恫喝し自分の偏った考えを押し付けるような教員も未だ多く存在する。そんな自分の適性を考慮せず、ただの欲求だけで教員になるような者を弾くためにも教員採用システムの見直しが必要だ。 

 さらに、平和教育についても再考すべきだ。日本では、歴史や道徳の授業、修学旅行などで「戦争の悲惨さ」のみが多くの場合伝えられる。しかし、子供たちに最も伝えなければならないのは、戦争が今の社会や教育にどのような悪影響を及ぼしているかということではないだろうか。戦時中は戦争に反対することが許されなかった。根性論が蔓延し不合理な作戦が立てられた結果多くの兵士がなくなった。また、戦争そっちのけで海軍と陸軍の無意味な権益争いが行われてきた。これらの戦時中の出来事をいじめ問題やブラック校則、コロナへの政府の対応などと結びつけて考える必要がある。そうすることで初めて子供たちは、戦時中から変わらない日本の異常な点を客観的に理解し、戦争を繰り返さないためにはどうしたらいいかについて考えることができる。

 家庭で親や祖父母らが子供たちの教育を行うホームスクールも導入すべきだ。学校で学ぶことに向かない子供たちも一定の割合でいることを認め、そのような子供たちに向いた教育を受けさせることが本当の意味での教育の平等をもたらすと私は考える。

 しかし、会社の終身雇用や年功序列、新卒一括採用制度と学校の部活動的なノリが結びついた日本型の教育-社会システムは日本に深く根付いてしまっている。そんなシステムの中で地位を得てきた大人たちが今更それを変えるとは考えにくい。今年起こった子供に関する事件は、2011年の大津いじめ事件をはじめとした多くの事件の反省を活かしていれば防げたはずだ。しかし、自分の地位にしがみ付くだけで何も変えようとしてこなかった無責任な大人達のせいで多くの子供達が犠牲になった。日本では、何か他の子供と違うことをすると、たとえそれが正しいとしても親や教師から「そんなんじゃ社会でやっていけないぞ」と言われる。しかし、今の日本のような社会に自分を押し殺してまで合わせる意味はあるのだろうか。むしろこんな社会に適応してしまったらまともな人間ではなくなってしまう。日本がこれからも先進国であり続けたいのならば、教育と社会のあり方を根本的に変える必要がある。

 

 

 

 

 

 

 

私が見る今の日本

 これまで私は、日本社会というのはギリギリのところでもっている状態にあると思っていた。しかし、2021年はそのような認識を改めるきっかけとなる年となった。つまり、日本社会はとっくに壊れており、ただそれを覆い隠しているだけなのだと。

(2021年の日本)

 経済について言えば、日本の実質賃金は1997年以来ずっと下がり続けている。労働生産性最低賃金など他の経済指標についても先進国中最下位レベルに近づいている。アベノミクスは「第3の矢」である成長戦略がうまくいかず、株価だけが上昇し富裕層と貧困層の間の格差が拡大するだけだった。そして、経済政策失敗の尻拭いをさせるかのように、東南アジア出身の技能実習生を劣悪な環境で働かせ、古い産業を維持している。

 国内政治について言えば、安倍・菅政権はモリカケ桜問題、厚労省不正統計問題、広島での大規模買収、日本学術会議問題などで隠蔽や改竄を繰り返し、政治の信用を失墜させた。一方で、立憲民主党など特定の野党については与党を批判するだけで具体性のある国家観も外交・安全保障政策も示すことが出来ず、今回の衆院選では惨敗に終わった。

 外交については、中国が国際社会において台頭する中で、未だにアメリカへの過度な軍事的依存から抜けだすことができていない。中国や韓国、ロシアとの領土問題についても進展する気配はない。北朝鮮による拉致問題についても同様である。

 1年延期で開催されたオリンピックでは、日本は史上最多のメダルを獲得した。しかし、新国立競技場の建設をはじめオリンピックの開催のために巨額の税金が使われた。一方で、コロナの影響により海外からのインバウンド観光客は訪れず、有観客での開催もできなかったことでほぼ国に経済的恩恵がもたらされることはなかった。代わりに一部のIOC関係者が多くの利益を得た。また開催に至るまで不祥事が相次いだ。

 コロナ対策では、政府は医療整備を最優先せず三密やクラスターに固執した。飲食店などには営業の制約を行うだけで適切な補償はなされなかった。また、マスコミや政治家が不安を煽ったことで、感染によるリスクを考慮した上でコロナ禍以前の日常を取り戻そうとする動きは封じられた。そして、コロナによる影響で経済的に困窮した人達や、うつ病になってしまった人達などは今もないがしろにされたままである。

 2ちゃんねるや、ヤフーコメント、ツイッターなどネット上には、既に存在していた自称保守、自称リベラル、自称フェミニストなどのほか、コロナの感染拡大が始まってからは自粛警察やゼロリスク信者と言われるような人々も加わったことで、さらに意味もなく排他的で感情的な議論が横行し、もはや言論空間の場として機能していない。

 さらに、教育予算・教育水準ともに先進国最低レベルであり、旭川市や町田市で起こったような凶悪事件を食い止めることができない。子供の貧困率はG7の中で最も高い。パパ活と呼ばれるような売春も流行している。パワハラやセクハラ、モラハラによって引きこもりになったり精神病を患ったりする人の数も多い。また、デジタル化などの変革も他の先進国と比較すると進んでいない。女性政治家の数も少なく、男性の育休取得率も低い。若者の政治参加への意欲も低い。少子高齢化も加速している。

 このような現状を見て、「それでも日本は殺人事件が少なく、街が綺麗だからいい国だ」などと言えるだろうか。「日本はまだもっている」と言えるだろうか。私は言えない。

(日本人の国民性)

 では、なぜ日本は現在のような状況に陥ってしまったのか。

 日本は戦後、9条・安保体制と1ドル360円に固定された為替相場のもとで高度成長を遂げた。しかし、19859月のプラザ合意の後は円高不況が起こり、バブルが発生し崩壊、そして「失われた三十年」に突入した。そこから抜け出せなかったのは政府や財務省の経済政策が間違っていたからであることは確かである。しかし、日本が衰退した原因はそもそも日本人の国民性にあるのではないか。

 日本人の国民性としてよく指摘されるのは、形ばかりの偽りの「敬意」や「謝罪」の強制、過剰な同調圧力、自分の頭で考えずただその場の空気に従うこと、などである。これらは、日本人の持つ「勤勉さ」として年功序列や終身雇用などの制度と合わせて日本の高度成長の要因だと見なされてきた。さらに、日本人は他国の人たちよりも優秀だという幻想も生まれた。しかし、今の日本には自分の地位が危うくなることの恐れから成果主義を否定し、自分が定年するまで地位を維持することだけに頭を使うような人間ばかりが存在し、経済では急速な発展を遂げたアジア諸国に抜かれつつある。それにも関わらず、テレビでは「日本スゴイ」と自画自賛するような番組が未だに放送されている。これはテレビ局も視聴者も現状が正しく認識できていないからだろう。

 戦時中も軍上層部は、客観的な現状分析を行わずに、ひたすら権益を最優先し非現実的な作戦を強行した。その結果、多くの国民の命が犠牲となった。コロナ禍の現在においても、政治家や官僚、医師会や分科会の上層部、特定の大企業幹部らは国民の命ではなく自分たちの持つ巨大な既得権益を守るのに必死だ。つまり、日本は戦後何十年と経った現在も変化していないのである。しかし、そもそも多くの国民は「自分は困ってないから今のままでいい」と変化を望んでこなかった。そして、そんな自己中心性こそが日本人の本質ではないだろうか。この自己中心性を克服しない限り日本社会がこれから上向くことはないだろう。つまり、GAFAクラスの企業はこれからも出てこないだろうし、奇跡的に出てきたとしてもすぐ立ち行かなくなるだろう。まともな政治家も出てこないだろうし、出てきたとしても有権者はその政治家を選挙で選ぶことができないだろう。人種差別や気候変動の他これからどんな問題が出てくるにせよ外圧がないと解決ができないだろう。

(これからの日本)

 衆院選で大勝した自民党の岸田首相は半導体人工知能(AI)の研究開発、カーボンニュートラルの実現、デジタル化の推進など成長戦略を掲げる。しかし、新しい産業を成長させたり、産業構造を変えたりする力がこの国にまだあるのだろうか。5Gや自動運転の特許数など次世代テクノロジーの面では中国に大きく水を開けられている。アメリカのベンチャーキャピタルへの投資額は日本の何十倍にものぼる。そんな状況の中で日本企業が今後、世界で存在感を示すことができるのだろうか。自民党総裁選や衆議院選挙の様子を見ても、政治家が危機感を抱いているようには全く感じられず、「自分たちの考えた政策を着々と実現していけば日本は良くなる」と国の将来を楽観視しているように思える。一方で、現実を直視している一部の若者や、国に未来を奪われた一部の氷河期世代の人々などは自分の将来にも国の将来にも悲観的にならざるを得ないだろう。そのような人達が愛国心を持てなかったり、コロナで社会全体がダメージを負ったことに対し「ザマアミロ」と思ったりするのは全くおかしいことではない。

 私は、日本は自分の生まれ育った国であるから当然政治も経済も文化も何もかもよくあって欲しいと思っているし、世界で一番良い国であって欲しいと思っている。しかし、その望みは叶いそうにない。日本はいい国だ、他の国よりマシだなどと言っている間に国は衰退を続けてきた。これからは日本人が当たり前のように誇ってきた治安や衛生水準も悪くなっていく可能性がある。それらを保ってきた人たちを社会が冷遇するからだ。これまで私の上の世代の人間は様々な問題を先送りにするだけで何もしてこなかった。これからもそれが続くのであれば、やがてこの国は無くなるだろう。